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じわっと心が暖まる一冊「向田理髪店」(奥田英朗)

近所の理髪店が大好きだった。老夫婦が営んでいる理髪店で、飛び込み客は受け付けないという完全予約のお店。完全予約と言っても、土日は予約でいっぱいだったが平日は空いている。それでも常連客以外は、どんなに空いていても予約をしないと理髪をしないというマイペースなお店だった。

「忙しいのは苦手なんだよね」というのが店主の口癖で、それでも土日は予約でいっぱいなのは店主の人柄が穏やかで好かれていたからだろう。親父さんが髪を切り、奥さんが髪を洗う。そんな分担がのんびりとしたリズムのなかで行われていて、リラックスすることを求めて毎月通っていた。

理髪料金は洗髪や顔ぞりを含めて4,000円弱。最近では千円ほどで理髪だけを行うチェーン店も増えてきたが、昔ながらの理髪店にはリラックスできるという良さがある。その心地良い時間を味わうために定期的に通っていた。

そんなお気に入りのお店だったが、ある日のこと予約していた日時にお店に行くとカーテンを閉めた店内にポツンと奥さんが座っていた。ご主人が前夜倒れて、救急車で運ばれたとのこと。予約していたお客さんにお詫びするのために、病院から戻って待っていてくれたのだ。

お客さんを大切する気持ちに感動しながらも、ご主人のことが気になった。その後、幸いにしてご主人の容態は大事には至らなかったようだが、お店はそのまま閉じることになった。今からもう10年以上前の話だが、理髪店のポールを見るとこのお店のことを今でも思い出す。

「向田理髪店」表紙

奥田英朗さんが書かれた「向田理髪店 (光文社文庫)」は、過疎が進む北海道苫沢町ある理髪店が舞台の小説だ。苫沢町は架空の町で、かつて炭鉱で栄えたが今では財政破綻をした町だという。モデルになっている市町村は何となく推察できるが、逆に日本のどこにでもありえる町だという感じもする。 

向田理髪店を営む向田康彦は、若い頃には都市部でサラリーマンをしていた。元々実家の理髪店を継ぐ気はなかったものの、父親が病気で倒れたことをきっかけに店を継ぐことになる。それから数十年、康彦の息子は札幌で働いていたが、ある日「会社を辞めて店を継ぐ」と宣言し戻って来てしまう。妻は手放しで喜んでいるものの、店の隣をカフェにするとか町を元気にするんだとかいう息子の言葉を、康彦は素直に聞くことができない。それでも、後継者不足の進む苫沢町ではありがたい話だと周囲に諭される。

そのほか、町に映画のロケを誘致する話や中国からの花嫁を巡る話など、高齢化と後継者不足の進む苫沢町で繰り広げられる日常を、向田理髪店と店主の康彦とを中心に連作短編で綴っている一冊だ。

過疎の町が抱える問題を鋭く掘り下げながらも、町の人々の暖かくてやさしい気持ちを描きながら問題を解決していく。登場人物の一人一人がとても個性豊かで純朴で優しくて、読み終わった時にじわっと心が暖まってくる。

理髪店というのは人が集まる場所だからこそ、人の噂や情報が飛び込んでくる。そのため、口の固さや物腰の柔らかさなど、店主の人柄がお店の信用と繋がってくる。私が以前通っていた理髪店にも、旅行のお土産を持ってくる人がいたり理髪が終わっても話し込んだりする人がたくさんいた。

そんな昔ながらの理髪店の良さも思い出させてくれる一冊は、心を温めてくれるだけではなく読んだ人の心を元気にしてくれる一冊だった。

向田理髪店 (光文社文庫)

向田理髪店 (光文社文庫)