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おやこでポレポレ《文房具好きブログ》

大好きな文房具や書籍、日常のことなどを更新中です!

乱読は素晴らしい!「乱読のセレンディピティ」(外山 滋比古)

 本をたくさん読む「多読」、細かいところまで丁寧に読む「精読」、いろいろな本を手当り次第に読む「乱読」、買った本を読まずに置いておく「積読(つんどく)」など、読書に関してはいろいろな読み方がある。

 そのうち「積読」に関しては、「積んでおく」と「読書」を掛け合わせた駄洒落的な俗語だが、本好きの方は少なからず何冊かの本をストックしていると思えるし私もそうなので、言い得て妙な言葉だなと思う。

 小学生の頃から本好きで、学校の図書館の貸出カードを複数枚にしていた私は、SFやノンフィクション、純文学、昔話などいろいろな本を読むという乱読・多読だった。それは半世紀を生きてきた今でも変わらない。

 一般的に「”多読”は良くて”乱読”はよろしくない」というイメージがある。「乱」という言葉には「乱れる」という意味があり、「乱戦・乱雑・乱暴」など悪いことに使われるためそういったイメージが持たれるのだろう。というよりは、「悪い」という考えが先にあったからこそ「乱」という字が使われたのだと思う。

 はたしてそうなのか。自分でいうのもはばかられるが、乱読をする人には好奇心旺盛な人が多い。私の周辺にも「乱読者」が多数居るが、概して興味のアンテナが高くいろいろなことに挑戦したり一芸に秀でた人が多いような気がする。

 私も経験があるが、乱読をして行く中で全く異なった分野の事柄がつながることがある。例えば、時代小説に出てきた品物のことが全く関係のないビジネス書で取り上げられていて、さらに雑貨を扱う書籍でも見かけて商品化されていることを知る。そんな知的パズルの用なことに出会えるのは、乱読をしているからこそだと思う。

乱読のセレンディピティ (扶桑社BOOKS)

  以前、とあるブログで知り興味を持ったのが、外山滋比古さんの書かれた乱読のセレンディピティという一冊。外山さんはベストセラー「思考の整理学」の著者でもあるので、ご存知の方も多いのではないだろうか。

 「乱読」という言葉に惹かれて書店で帯解説を読んでみたが、その中に「本が読まれなくなった、本ばなれがすすんでいるといわれる近年、乱読のよさに気づくこと自体が、セレンディピティであると言ってもよい」という文章があり迷わず買って読んでみた。

 セレンディピティ(serendipity)とは「思いがけないことを発見する能力」のことで、とくに科学の分野で好まれて使われる言葉のようだ。有名なところでは、イギリスの生物学者フレミングがブドウ球菌の培養中に誤って青カビを混入してしまい、青カビの周辺にあるブドウ球菌が消えていることで、結核の特効薬であるペニシリンを発見したことなどがあげられる。

 そんな科学分野で使われている言葉の意味を知ると、全く関係のない書籍から得たそれぞれの情報で新しいことを思いつくという乱読経験がマッチしていることに気づく。僭越ながら著者の書かれていることに対して、なるほどそうだよなと大きく頷いて読み進めてしまう。

 本書に書かれているのは、乱読によるセレンディピティのことだけではない。本は買って読むべきだということや、歩きながら考え事をするのは効果的だということ、夜型よりも朝型の方が効率的だということなど、読書を基軸としてさまざまなことに触れられている。

 まさにこの本を一冊読むだけで「乱読」したような効果があり、知的好奇心を満足させてくれる一冊となっていた。本好きの方には同意する部分の多い一冊でもあると思う。

乱読のセレンディピティ

乱読のセレンディピティ

 

内容(「BOOK」データベースより)
一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとり逃すものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、いまは違う。本はあふれるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。本が読まれなくなった、本ばなれがすすんでいるといわれる近年、乱読のよさに気づくこと自体が、セレンディピティであると言ってもよい。積極的な乱読は、従来の読書ではまれにしか見られなかったセレンディピティがかなり多くおこるのではないか。それが、この本の考えである。